キリスト教は基本的に、新約聖書に出てくるイエスを「唯一の救い主」として信じます。 ただ心で信じるのではなく行動に移します。それは、信じていることを告白したり、洗礼を受けたり、聖書の御言葉に従って生活をすることです。
キリストとは、Q1にも書いてありますが、「救い主」という意味です。イエスをイエス・キリストと言うこともありますね。 私もまだ信仰の最初の頃は、イエス・キリストを和風に考えて「ああ、イエス(苗字)・キリスト(名前)だね」「いや、外国の方だから イエス(名前)・キリスト(苗字)だ」なんて誤った考えをしていました(笑)。

語源はギリシャ語に由来します。油を注がれたものと言う意味です。油を注がれたものとは、王や祭司の身分を指します。

クリスチャンとはこのキリストから派生したものです。ではクリスチャンは救い主の特権を有した人なのか?そういう意味ではありません。キリストに属するものという意味です。

クリスチャンはキリスト教信者とイコールと考えても問題ありません。ただプロテスタントの人が多いと思います。戦後、宣教師として来日された方の影響で 一般化したようです。

クリスチャンはイエス・キリストを自分のいのちの救い主として信じています。もう少し詰めますと、自分のいのちが裁かれて滅びてしまうところから救ってもらった、ということです。その心情は、

「ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです(Uコリ1:10)。」

という言葉に良く現れているとおりです。さて、自分にいつ死の危険があるのか、救われなきゃいけないのか?そんなひどい立場に立っているとは到底思えないと思う人もいると思います。

聖書で言う救いは、罪からの救いです。罪が何かは別の所で説明するとします。罪は強いです。例えで言うなら、プロレスラーや横綱みたいなものです。あなたが「さあ、横綱と戦ってください」と言われて勝てる見込があるでしょうか? 到底、勝負にならないと思う気持ちの方が強いと思います。罪を前にした人間の姿も同じです。

では、筋トレして強くなれば、横綱にだっていつかは勝てるという考えもありますが、人間いくら鍛えても、目だけは鍛える事ができないように、罪はそんな急所を攻めてきますので、自己鍛錬では決して勝てないのが実状です。

では、どうしようもないのではないかと諦めもでてきそうですが、罪の天敵とも言えるのが神様なのです。罪はこれに勝つ事はできません。

聖書で言う罪の意味は、私達が通常使っている罪とは少し違います。英語では罪という言葉が
・Crime:犯罪・刑事上の罪
・Sin:道徳上の罪
と2つありまして、聖書の罪はSinにあたります。聖書の「罪」に当る言葉の語源は「的外れ」と言います。つまり矢が的から外れて、本来の目的からから外れた状態をさしています。

包丁を例にとって説明します。
包丁は料理を作るときに、食材を「切る」のが本来の目的です。包丁で人を脅したり、切って傷つけるのは、本来の目的ではありません。

同様に人にも本来の目的があります。聖書でいう人の本来の目的は神様とともに生き、神様の栄光を現す生き方をすることです。

神様を信じなかったり、知っていても無視したり、神様によって生きていない状態、そんな人の人生が的外れ(罪)であると聖書は明確に教えています。

では、具体的に罪に当るこういが何であるのかといいますと、イエス・キリストが生まれる前の時代、人々は神様から律法を与えられていました。律法は生活の隅々から、神様に対する 態度までことこまかに決め事があります。モーセの十戒はその中でも有名な箇所です。

ただ、律法は全ての項目を守らなくてはいけなく、ひとつでもできなければ、罪人ということになります。

律法は旧約聖書のレビ記あたりをみると参考になりますが、最初はなかなかぴんと来ないなし、私もそうでしたが難しいと感じるかもしれません。 ただ、使徒パウロはどういった行為が罪となるのか、的確に記している箇所が聖書にはいつくかあります。少し上げてみますと、

「彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語を言う者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、自愛のない者です。 (ロマ1:29-31)」

「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。(ガラ5:19-21)」

ということです。私自身そうでしたが、これに当てはまらないと言い切れる自信も、根拠もありませんでした。これらの行動は神様との繋がりがなく、断絶した状態からくる結果です。

このような状態は決して神様が願っていた本来の姿ではなく、的外れの状態です。