2008年ルカの福音書 第10講

主の祈り

御言葉:ルカの福音書11:1−13

要 節:ルカの福音書11:2 「そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。』」

 

 神様が毎週ルカの福音書を与えてくださり感謝いたします。先週は隣人について深く学ばせてくださり感謝いたします。私たちが神様を愛し、隣人を愛するようにお祈りいたします。世間はいよいよ夏休みに入ってきました。夏休みになるとどうしても学校や会社がないために、生活のリズムが崩れやすいです。でも、私たち信者が祈りのリズムを崩すべきではありません。さて、今日の本文では弟子がイエス様に祈りについて質問をする場面です。そしてイエス様の答えから、私たちは祈りについて学びます。祈りは信者の呼吸と例えられます。神様との対話とも言われます。では、どのように祈るべきなのでしょうか。また、どのような姿勢で祈るべきでしょうか。この時間、御言葉を通して祈りについて深く学ぶ時間となるようにお祈りいたします。

 

T 祈り課題(1-4)

 1節をご覧ください。「さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。』」今日の本文では弟子がイエス様に祈りについて質問しています。それまでは食べることとか、将来のこととか、誰が偉いかとか、霊的なことよりも、現実的な話題が多い弟子でした。しかし、今日は違います。一体どうしたことでしょうか。天から槍でも降ってくるような質問でしたでしょう。

 弟子がこのようにイエス様に尋ねた理由には、イエス様が祈る方だからでしょう。1節にはイエス様が普段からいかに祈りを大切にされているのかがわかります。聖書にはイエス様が祈られる場面があちこちにあります。悪霊につかれた子供を直されるとき。朝一人で祈るとき。五つのパンと二匹の魚で五千人を食べさせるとき。十二弟子を招かれるとき。十字架にかかる前の晩の時。イエス様は朝早くから夜遅くまで大変慌ただしく過ごされました。オーバーワークも多かったでしょう。休日も働かれたでしょう。そのような生活をすれば誰でも疲れてしまいます。私もイエス様には遠く及ばない生活なのに、ちょっと仕事で遅くなった日が続くと、疲れてしまいます。でも、そうあってもおかしくないイエス様は違いました。疲れているどころか、ますます元気でした。じっと休むどころか、ますます精力的に働かれました。一方、弟子たちはすぐに疲れていました。ちょっと働いただけでもお腹が空き、ちょっと無理をしただけでも眠くなりました。イエス様はどうしてあんなに元気で、生き生きとできるのか、弟子たちは不思議でした。しかしその秘密が祈りにあると分かったのでしょう。だからイエス様質問しました。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」

 当時レビ人など、先生とされた人にはそれぞれの祈祷文があったそうです。洗礼者ヨハネにもヨハネバージョンの祈りがあったようです。現在でも教団ごとに、教会ごとに祈る内容に違いがあるでしょう。私たちの集まりには2041年までに10万人の宣教師派遣という特有の祈り課題があります。祈りは、みことば、賛美とともに信仰の三大柱です。たとえ信仰がなくても、興味本意でみことばを聞いたり、学べるでしょう。たとえ信仰がなくても、歌が好きで賛美歌を聞いたり、ゴスペルも歌えるでしょう。でも、祈りは違います。神様に向かうと言う姿勢がないと祈れません。信仰なしの祈りはあり得ません。ここで信仰を持って祈ろうと弟子たちはしていました。神様に祈り頼ることがよいことだとわかってきました。そしてイエス様が普段祈られている内容を知りたがりました。ヨハネではないイエス様バージョンの祈りを教えてほしいと言ったのです。

 では、イエス様の祈りはどんなものでしょうか。2節からのイエス様の答えは、主の祈りとしてクリスチャンには有名な個所です。私たちの礼拝でも最後にこの主の祈りを唱えています。では、その唱える祈りの内容について今日は学びたいと思います。2節をご覧ください。「そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。』」

 第一に、神様と私の関係を知ることです。イエス様の祈りの最初には「父よ」とあります。神様に祈りをささげるとき、イエス様は父に話しかけるかのように祈っておられました。私たちはどうしても神様に祈るというと、かしこまって、恐れをもつのが普通ではないかと考えやすいです。でも、それだけでなく、親子のような関係です。私たちが抱く父のイメージはどうでしょうか。世間では臭いとか、声が大きいとかいろいろじゃけん視されていて、良いイメージではないかも知れません。でも、小さいころは誰でもお父さんと言えばおっきくて、大好きでしたでしょう。私の息子も最近はよくなにかあると「パパ。パパ。」と話しかけてきます。そこには何の遠慮もない、くったくのない声です。神様に祈る時、父よと言いますが、まさにそんな感じではないでしょうか。神様は遠い存在ではありません。見えない、恐れるばかりの方に向かって祈るのではありません。遠慮して祈る神様ではありません。聖書の神様は、愛の神様です。恵みの方です。私たちを実の息子のように愛しておられる方です。もちろん、私たち自身を振り返れば、神様に対してよい子供ではなかったでしょう。神様を信じず、神様にそむいていた私たちは親不孝な子供でした。親を困らせる問題児でした。それでも、親が子どもを無条件で愛するように、神様は私たちを愛してくださるのです。たとえどんなことをしてきてもそれは変わりありません。聖書にはこうあります。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」(ロマ8:14)祈る先にはそうした豊かな愛ある神様が聞いていてくださることをイエス様は教えられました。神様と私との関係をまず祈る前に正しく知ることが大切です。

 第二に、神様の御名があがめられるようにです。次にイエス様は「御名があがめられますように」と教えられました。ここで崇められるとは区別されることです。旧約聖書イザヤ書にはこうあります。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」(イザ6:3)神様をどんな方と見るか、ここでは聖なる方だと言います。そしてあがめる対象だと言います。神様は人が利用する相手や友達のような感覚ではありません。あくまでも神様はこの世を作られ、私たち人を作られた方です。神様は万物の創造者であり、栄光と誉れを受けるにふさわしい方だと祈ることです。私たちはとかく祈りとなると、自分の困ったことや切迫した問題からべらべらとしゃべりたくなってしまいます。しかし、イエス様はそうしたものではなく、最初に神様のために祈るべきだと教えられました。自分のことや周りの人のためよりも、まず最初に神様のために祈ることです。祈りは自分のためではなく、まず神様のためであることを知るべきです。神様を第一とすることはどんな時も、どんな状況でも変わることのない順番です。旧約聖書を見ると、兄弟にねたまれエジプトに売り飛ばされたヨセフ、サタンの誘惑にあい多くの家族と病に苦しんだヨブ。彼らの状況は自分だけで精いっぱいで、助けが必要でした。しかし、彼らはまず自分のことよりも、神様を先立たせていました。それは今生きていることが神様によるものだからです。今ある生活、今生きているいのち、今暮らしている環境、すべて神様が作られたものだからです。神様の御名をあがめることは、私たちが生きていることを実感し、それが神様によるものだと正しく悟るものです。私たちは自分勝手に生きているのではありません。神様によって作られ、生かされていることを自覚するためにも、この祈りは最初に来るべきものなのです。私を通して、私の家庭を通して、私たちの集まりを通して、神様の栄光を表すことを優先するという内容です。

 第三に、神様の国を求めることです。これは神様が世界を治めてくださるようにという意味です。科学文明が発展した現在では家にいながら世界中の映像をインターネットで楽しめるようになりました。技術の発展は日々進んでいますが、人が作った社会は心の発展も促しているのでしょうか。親子同士での殺害や学校でのいじめの記事を見ると人が集まるだけでは、むしろ問題が多いようです。愛し合うことよりも、怒りあうことが多く、助けあうことよりも、競争することが多いです。それは、この世が神様ではなくサタンに支配されているからです。人の心がサタンに支配され、他人のいのちを尊重できず、自分の思いだけに縛られる罪の中にいるからです。このような中にいるからこそ、私たちを通して神様の愛と喜びが人々に伝わることが切実です。サタンではなく神様の愛に支配されることです。神様の愛により人の命を愛し助け合う、神様の御国を実現してゆくことです。私たち信者一人一人を通して実現できるように祈り求めることをイエス様は教えられました。

 主の祈りの前半は主に神様に関する内容です。こうした祈りを考えるとき、何よりも神様に感謝することが大事だと学びました。毎日生活していること、家庭や環境に恵まれていること、すべての後ろには神様の支えがあるということに感謝をすべきです。私が今いるという背景には神様がおられることを覚え、感謝をまず捧げることが祈りではないでしょうか。そして私を生かしてくださる神様を第一に祈るのは、そう考えると当然ともいえる順番なのです。私たちを愛してくださり、恵ませてくださる神様を思い、神様に感謝を捧げる祈りができますようにお祈りいたします。

 次に主の祈りの後半部分は、私たちに関する内容となっております。3-4節をご覧ください。「私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」

 一番目に毎日の食事に感謝する祈りです。週ごと、月ごと、年ごとではなく、毎日糧を求める祈りです。なぜ毎日祈る必要があるのでしょうか。または食事の感謝は料理を作ってくれた人や畑で働いた人が優先ではないかと思うかも知れません。でも、太陽も空気も水も人は作れません。日ごとの糧の根本には神様の恵みがあるのです。私たちはいつも自分で何かを成し遂げた、自分でできたと思います。しかし、私たち自身を誇るより、何事も神様に頼るということの大切さをこの祈りは教えてくれます。聖書にはこうあります。「あなたは心のうちで、『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。」(8:17-18)私たちはこの恵ませてくださる神様に謙遜になる必要があります。そして、日々謙遜に神様に頼るということが大切です。神様は昔エジプトを脱出したイスラエルに毎日、天からマナという食べ物を降らせました。毎日そうされたのは、イスラエルが毎日神様を覚え、毎日神様に謙遜に頼るためでした。私たちも日々当たり前のように与えられていることにも神様に感謝をささげることが大切です。

 二番目に罪の赦しのためです。私たちが霊的に祈りの生活をするには神様からの罪の赦しが必要です。私たちが罪のままでは神様と正しい関係性を結べず、かえって神様から遠くなります。罪は人を汚し、自分勝手にし、他人を自分の目でしか見られないようにします。そして人を傷つけ、自分も傷つけ、その果てには滅びの死しかありません。この罪を払拭するために、自分を聖く保つために人は昔からあらゆる努力をしますが、罪は私たちの努力や善行のような行動では解決できるようなものでありません。罪は自分の意志や力ではどうにかなるものではありません。ただ神様からの赦しと助けなしは解決できないものです。元々罪とはヘブル語で「借金」と同じ意味を持っています。私たちは罪を犯し続け、雪達磨式にふえていった罪という借金を返済しきれない状態でした。借金のし過ぎで自己破産寸前だった私たちを、神様は無条件でしかも、ご自身の独り子を代償として救ってくださったのです。このような私たちがまずしなくてはいけないのは、自分に負い目のあるものを赦すことです。罪は人と人との関係をも破壊します。ですから罪を赦された私たちがこれ以上罪を犯して人との関係性を破壊するのは神様が願われません。これは簡単なことでありませんが、イエス様が負った私たちの借金ははるかに大きいのです。私たちの罪を帳消しにするために多大な犠牲を払われたイエス様を考えた時、私たちは自分が救われた負い目を忘れて、他人の負い目のことで人を裁いていてはいけません。「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」(マタ18:35)

  最後に「私たちを試みに会わせないでください」です。この世はいろいろな誘惑と悪で満ちています。悪魔がほえたえるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています(Tペテ5:8)。罪の誘惑は激しく、私たちは自分で大丈夫だという思いこそ罪に陥った考えです。わたしたちが先ほど罪の支配から抜け出せなかったように、罪の誘惑もわたしの力では撥ね退けることが難しいです。試みに会ってからでは時すでに遅しです。常に試みにあわせようとする勢力から守られるように祈ることは、自分を神様に明け渡す大事なことです。

U 祈る姿勢(5-13)

  1-4節を通して、私たちは何を祈るべきかについて、祈りの内容について学びました。では、祈りはどのような姿勢で、どのような心構えで神様に向かうものでしょうか。5節からは祈りの姿勢について学びます。5-7節をご覧ください。「また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』」私も夜中寝ているときに海外の宣教師から電話が来ると、しんどいなあと感じる時もあります。まして、夜中の寝ている頃に、それがたとえ友達でも来たら会うのも億劫でしょう。女性なら身だしなみもあるから、そう簡単ではありません。

 8節をご覧ください。「あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。」あまりにしつこく求めるので、うるさくてこれ以上断るほうが大変になった友達は結局対応せざるを得なくなりました。祈りも同じです。神様は私たちの祈りをめんどくさそうに聞かれる方ではありません。しかし、祈る私たちは彼のようにしつこく祈り続けることが大切です。

 そしてイエス様は祈りの姿勢について次のように結論を言われました。9-10節をご覧ください。「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」イエス様の教える祈りはただ唱えるだけではありません。ただ言葉に出すだけではありません。求め、捜し、たたくという具体的な行動の伴った祈りでした。それは先ほどの友人のような厚かましさがあったとしても、そのような姿勢こそが祈りで大事な要素です。

 一番目に求めることです。求めるのはないからです。あるのに求める人はいないでしょう。私たちは実力がない、環境がないとか「ない」を理由にします。時間がない、人がいない、私たちの集まりでもよく口にしてしまいます。でも、イエス様はないのなら、求めなさいと言われました。ないのなら、祈り求めることをするべきだと言われました。状況とか力が足りないからダメなのではなく、こうした祈りが足りないからではないかとイエス様は言われるのです。

 二番目に探すことです。祈り求めるのなら、それだけに終わらず探すことです。でも、それは見つかるか見つからないかわからないものを探すのではありません。祈り求めるものには、必ず答えが用意されています。神様が用意された答えを探すのです。探すということはまるで宝探しのようなものです。私たちがキャンパスで兄弟姉妹に仕えることも、探すことも、決してそれは用意されていないのではありません。神様がきちんと用意されているのを信じて探し続けることが大切です。

 三番目にたたくことです。探しても見つからなければあきらめる心が生じやすいです。でも、あきらめるのではなく、挑戦し続けることです。私たちは祈り求めながらもどこかで線引きをしてしまいやすいです。今日まで何もなかったら祈るのをやめよう。ここまでやってもだめなら、これは神様の御心ではないからやめようと、祈りながらもどこかでやめることを考えてしまうのです。でも、やめることを考えるまでにできるところまで挑戦することです。先日、野球選手の野茂投手が現役を引退するニュースがありました。日本人としてはじめて大リーグにわたり、二度のノーヒットノーランを達成した、日米の野球界で歴史に残る活躍をしました。ここ数年はけがで故障し、以前のようなボールを投げることができなくなっても、彼は全く引退を考えていなかったそうです。そして、引退を発表しても、悔しいとコメントしたそうです。彼にはどこでやめようかという線引きが本当になかったのだと思いました。彼のように私たちも線引きをするのではなく、挑戦し続けるスピリットを携えることが大切です。

 11-13節をご覧ください。「あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」私たちは神様の子どもです。親は子供の期待に添いたいと思うものです。私も子どもを持ってそれを実感しました。子供が願うなら、親はそれができようができまいが、何とかかなえてやりたいと思うのです。そしてそのために奔走しているのが親ではないでしょうか。

 まして、私たちの父は全能なる神様です。私たちのような限界のある父ではありません。何事も可能にしてくださる方に私たちは祈り願っているということを忘れてはいけないのだと思います。しかし、どこか一方で私たちはこんな願いをしてはいけない、こんな願いは怒られるとどうしても祈る前に内容を自分で判断していないでしょうか。そしてもっと立派な祈りにしようとしていないでしょうか。私もそういう部分がありましたし、祈っていてもなかなか答えがないと、それが神様の答えだと割り切る部分がありました。しかし、そのようにして自分で勝手に決め線引きしているのは、神様を信頼しているようで、神様を頼っているようで、実は頼り切っていないものでした。

 この大阪の御わざについても、祈り課題が単なる言葉になってしまっていた時もありました。しかし、今年の初め主の全能の力と不思議としるしを求める心で祈ることの大切さを学び、それからは無茶かもしれないが、祈り続けること、単純に求め続けてきました。そしてバイブルアカデミーでは同労者たちが本当に祈るだけではなく、捜し、たたく、実際に行動に移しました。そして神様の恵みで、私の同労者には年初の祈り課題であった一人の学生と聖書勉強できるようになりました。また予想もしていなかった方々と知りあえ、関係をもつように神様は恵ませてくださいました。このことを通して、主に期待して祈り続けることの大切さを学びました。そしてそれを実際に行動に移すことの大切さを学びました。そして何よりも祈り求めるとき、想像以上の結果を神様は与えてくださることを学び感謝いたします。私たちの集まりが祈る集まりとなるようにお祈りいたします。神様に謙遜になり、子どものように単純に純粋に祈り、求め、捜し、たたく集まりとなるようにお祈りいたします。そしてこの集りに5チームの聖書勉強と二人の学生の主日礼拝の参加、ひとりの弟子がたてられるようにお祈りいたします。

  結論として、祈りはことばで終わりません。神様が聞いてくださいます。祈りは神様との会話です。信者の呼吸です。私たちが自分の判断で祈りを止めるのではなく、最後まで、求め・捜し・叩く姿勢を忘れずに祈る僕となりますようにお祈りいたします。主の祈りを感謝しながら、謙遜に祈る毎日を送ることができますようにお祈りいたします。祈りを通して聖霊様に豊かに満たされ、大阪のみ業に尊く用いられ、神様の栄光をあらわすことができるようにお祈りいたします。